スモール出版

『高橋ヨシキのシネマストリップ』 試し読み



人間は個人として尊重されるべきだ

『ショーガール』
(1995年・アメリカ/原題:Showgirls)
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
出演:エリザベス・バークレー/カイル・マクラクラン/ジーナ・ガーション/グレン・プラマー/ロバート・デヴィ

〈あらすじ〉
トップダンサーとして華やかな舞台に立つことを夢みる女性、ノエミ(エリザベス・バークレー)は、ショービジネスの都であるラスベガスにヒッチハイクでやって来た。だが彼女を待ち受けていたのは、場末のクラブで踊るヌードダンサーという厳しい現実と、泥沼のような人間関係だった。



ストリップショーの世界

ポール・ヴァーホーヴェン監督の『ショーガール』は、公開当時、とくにアメリカで散々な言われようをした作品です。ヨーロッパではそれなりにヒットしたのですが、アメリカでは興行的にも振るいませんでした。

こき下ろされたのは作品だけではありません。文字通り体を張って頑張った主演のエリザベス・バークレーに対しても心無い中傷が多く寄せられ、中には「演技していたのは彼女のおっぱいだけ」などと許しがたい文言を連ねた批評までありました。当時のエリザベス・バークレーは21歳。どれほど傷ついたことかと思います。

映画はノエミという若く奔放な女の子が、ヒッチハイクでラスベガスにやってくるところから始まります。到着するなり彼女は持ち物を全部盗まれてしまうのですが、そこで出会った親切な女友達の家に泊めてもらえることになります。その後、場末のストリップバーから高級ストリップバーへと舞台を移しながら、ノエミがラスベガス一のヌードダンサーを目指して頑張る……というのがストーリーです。といって、順風満帆には進みません。

ストリップショーの世界は、クズのような男どもが跋扈しているうえに、クリスタルという名前のトップダンサーが君臨していてノエミの行く手を遮ります。そんな場所で、コネも学もないノエミがどうやって栄光を勝ち取ることができるのでしょうか?

NC-17指定(17歳以下鑑賞禁止)

オランダからやってきたヴァーホーヴェン監督は、ハリウッドで撮った『ロボコップ』(1987年)、『トータル・リコール』(1990年)、『氷の微笑』(1992年)が軒並み大ヒットだったので、本作の製作にあたってはスタジオ側と非常に有利な契約を結ぶことができました。

予算は4500万ドル。また、『ショーガール』は当初から「NC-17指定(17歳以下鑑賞禁止)」を前提として作られました。このNC-17指定というのは、アメリカのレイティングでは最も厳しいもので、いわゆる「成人指定」と同じです。なので、映画製作者は通常なるべくNC-17を避けるようにすることが多く、結果的にNC-17になる映画はあれど、この映画のように最初からNC-17を前提で作品が作られるというのは比較的珍しい事態です。

脚本を担当したのは『氷の微笑』のシナリオを手掛けたジョー・エスターハスで、彼はとんでもなく高額の脚本料をふんだくることで知られています。スタジオ側としては『氷の微笑』の脚本家と監督が再び組んだ「セクシーでエロティックなサスペンス映画」として本作を売りたかったのでしょう。黒バックに入ったスリットのすき間から、主演のエリザベス・バークレーの体が覗いて見えるという、スタイリッシュなポスターを作って宣伝しました。ところが、いざ蓋を開けてみると映画全体がとにかく全裸、全裸、全裸の嵐だったので、オシャレなエロティック映画だと思って観に来た人たちはみんな目のやり場に困ってしまいました。

しかし『ショーガール』の舞台はラスベガスです。欲望ぎらつくラスベガスには、本作に登場するようなエロティックなショーがたくさんあります。ヴァーホーヴェンは「ラスベガスを舞台にしたストリップダンサーの話なんだから、嫌というほど裸が出てきて当然」と思っていたのですが、それに抵抗感を示す人がアメリカでは多かったのです。

これについてヴァーホーヴェンは「本作は一種の変形ミュージカル映画で、設定上、出てくる人たちが裸なだけだ」と言っています。しかし、大勢の裸がのべつまくなしに映っていると、それだけで気分を害する人たちもいるということです(それは映画ではなく、その人たちの問題のような気もしますが)。

『ショーガール』がアメリカで失敗したのは、アメリカ人がバイオレンス描写には寛大なのに、セックスや裸に対して必要以上に抵抗を覚える、という傾向と関係しています。「バイオレンスはOK、セックスや裸はダメ」というアメリカに対して、ヨーロッパでは「バイオレンスはダメ、セックスはOK」という風潮があります。『ショーガール』については、「裸が満載の映画を観終わって、劇場から出てくるところを知り合いに見られたくない」と多くのアメリカ人が思ってしまったため、それが興行面での失敗に繋がったのでは? という分析もあります。

男社会のゲームに乗るか、乗らないのか

盛大に繰り広げられた『ショーガール』批判では、主人公ノエミのキャラクター造形も問題視されました。彼女が「ガサツで下品で暴力的」だというのです。しかし、ちょっと試していただきたいのですが、この映画を「もしノエミが男だったら」と想像しながら観た場合、こうした批判がまったく不当なものであることが分かると思います。

ノエミには「ストリップの世界でのし上がりたい」という確固とした目標があり、人から不当に扱われたと感じるとすぐ手が出てしまいます。男の主人公であれば、こうした性格付けは別段珍しいものではありません。自分を小馬鹿にした人間をすぐにブッ飛ばす男の主人公はいくらでもいます。

ところが、ノエミのような女の主人公が同じ行動をとるとバッシングの対象になってしまいます。しかし、それは観る側の考え方に問題があるのではないか? そうヴァーホーヴェンは考えていたのだと思います。このテーマをヴァーホーヴェンは新作『エル/ELLE』(2016年)でさらに推し進めました。

そういう感覚は他のヴァーホーヴェン作品『SPETTERS/スペッターズ』(1980年)や『ブラックブック』(2006年)にも共通しています。ヴァーホーヴェンは一貫して女性を対象化することなしに、自立した個人として描いてきました。

ジーナ・ガーションが演じるトップダンサーのクリスタルは、主人公ノエミと対照的なキャラクターです。クリスタルとノエミの違いは「男社会において女がどのように見られ、扱われているか」ということを分かったうえで、その「男社会のゲーム」に乗るか、乗らないのか、というところにあります。クリスタルはあえて「男社会のゲーム」に乗ることでのし上がった人物です。ノエミは、そのゲームに乗ることをよしとしませんでした。彼女は、裸の自分に投げかけられる視線を弾き飛ばす女性です。

最終的に、ノエミはラスベガスのトップ・ヌードダンサーの座を勝ち得たものの、街を去ることを決意します。映画のラスト、ノエミがラスベガスをヒッチハイクで去っていくカットをよく見ると、そこには「この先ロサンゼルス」という看板が立っています。ロサンゼルスはもちろん映画の都です。ノエミがラスベガスのエンターテインメントを超えた、さらに広い世界に向かっていくところで映画が終わります。

現代最高の映画監督ヴァーホーヴェン

本作は1996年のゴールデンラズベリー賞(ラジー賞)で「最低作品賞」という不名誉な賞を獲得しました(しかしヴァーホーヴェンはちゃんと授賞式に出席、スピーチまでしたのだから大したものです)。ぼくはこのラジー賞というものがあまり好きではありません。もともと冗談で作られた賞ではありますが、『ショーガール』の受賞に顕著なように、スケープゴートにしやすい映画を選んで叩くことが多いからです。

確かに『ショーガール』は興行的に失敗し批評も最悪でしたが、「みんながダメって言っているから、一緒になってけなしてしまえ」というのでは、リンチに加担しているのと同じになってしまします。

ヴァーホーヴェン監督は残酷やエロスを躊躇なく描くことで知られていますが、それは人間に絶望しているからではありません。むしろその逆に、人間の強さ、あるいはどんな人間でも変わることができるという可能性を信じています。ぼくはポール・ヴァーホーヴェンのことを現代最高の映画監督の一人だと思っていますが、それは彼の作る映画が、常に人間の尊厳の問題と向き合っているからでもあります。

『ショーガール』は裸同然の人たちが大量に出てくる映画ですが、現場がそのことで混乱したりすることはありませんでした。ヴァーホーヴェンは撮影前に詳細な絵コンテを描く監督で、その時点で俳優のポーズからカメラアングルまで、全て俳優本人の了解をとりつけています。「ここからここまで全部映ってしまうけど、それで大丈夫か?」と絵コンテに描かれたアングルに納得してもらっているので、撮影中に「それはできません」というようなトラブルは起こらないよ、と以前インタビューしたときに教えてくれました。

本作はけばけばしく、ギラギラした映画で、映画的なクリシェも多い、猥雑で下品な、しかしエネルギーに溢れた作品です。悪趣味映画の帝王、ジョン・ウォーターズ監督はこの作品を評して「完璧な映画だ」と言いました。

そんな『ショーガール』をざっくり一言で言うと、「人間は個人として尊重されるべきだ」という話ではないかと思います。




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