『高橋ヨシキのサタニック人生相談』 試し読み
Q:父親になることに不安を感じています。
妻が妊娠しました。2人で話し合った上で子作りに励み、ついに懐妊ということで大変喜ばしいのですが、一方で父親になることにプレッシャーを感じております。毎日「仕事行きたくないよー帰りたいよーめんどくさいよー」とヒーコラ言いながら仕事をし、家に帰ればゲームにNetflix、休日はもっぱら映画館通い。今まで趣味を第一に考えてきた自分に父親が務まるのだろうかと思うと、正直不安です。家事、仕事、趣味に加えて育児もやっていけるだろうかと……。もちろん、一番大変なのは妻なので一生懸命支えていく所存です。そこでヨシキさんに質問なのですが、こういうとき男はどういう心構えでいれば良いのでしょうか? もしくは、こんな悩みにぴったりの映画はありますでしょうか? サタニズムの子育て論なんかも聞いてみたいです。
質問者「クラッキティ・ジョーンズ」さん
A:「なーに、石器時代からみんなやっていたことだから、自分にできないわけがないじゃんか」と自信を持っていいでしょう。
これは難しい質問です。なんといってもぼくには子供もおらず、父親になった経験もないので、ここで子育てについて一席ぶつのは非常にためらわれるところではあります。しかし、作家の平山夢明さんの言葉を借りれば「松本清張先生だって人殺しをしたことないのに、殺人の話ばかり書いているじゃないか」ということで、経験がないからといって何かについて語れないということもないか、と気を取り直して回答したいと思います。
結論から言ってしまえば、大丈夫だと思います。未知の体験を前に不安になる気持ちはわかりますが、これまでの人類のうち、かなりのパーセンテージの人が、それこそ何十万年にも渡って子育てし、まがりなりにも種を存続させてきたわけですから、ここはひとつ「なーに、石器時代からみんなやってたことだから、自分にできないわけがないじゃんか」と自信を持っていいでしょう。
サタニズムでは子供は「より獣に近い」という理由で尊重されています。というか、そういう面白い言い方をするから余計にサタニズムが誤解されたりもするのですが(わざと誤解させて遊んでいるともいいます)、これは「子供は(動物と同じように)自分の欲望に忠実で、また大人のように妙な駆け引きをしないから美しいのだ」という、わりと当たり前のことを端的に言っています。なお、子供はいったん覚えると息を吐くように嘘をつくのですが(ぼくもそうでした)、親からしてみれば全部バレバレなのも可愛らしいところです。
知り合いから聞くところによれば、子育ての時期というのは、ヒーコラ言っているうちにアッという間に終わってしまうそうです。これも不必要にプレッシャーを感じなくていい理由の一つです。なお、このヒーコラ部分を奥さんとうまいこと分担するのは超大事だと思います。だいたい夫婦間の争いというのは、子育てに限らず「自分の方がよりヒーコラしているのに!」という不平等感から生まれるのが常なので、そこを「お互いヒーコラしてて大変だ」と双方が思えるように動くに越したことはないです。
あと、もし子供を預けられる人がいたら、たまには遠慮なく預けてどこかにご夫婦だけで遊びに行ったりする機会を設けるべきでしょう。乳幼児のときは、それこそ乳母さんでも雇わないと難しいと思うので、数年間はヒーコラ度が高くなるでしょうが、『メリー・ポピンズ』(1964年)ではありませんが、先の読めないゲームだと思って1個1個問題をクリアしていけばアッという間に年月が過ぎてしまうそうです。
子育てというのは、それこそかつて大ベストセラーとなった『スポック博士の育児書』(1946年刊/『スタートレック』とは関係ありません)の時代から、いろんな方法が提唱されていますが(ぼくの親は結構『スポック博士の育児書』を参考にしていた疑いがあります)、育児子育て関連のあれこれには、スピリチュアルやオカルトまがいのものも多くあるので、怪しげなものには首を突っ込まないのが得策です。超能力的なことを言い出したり(「子供にしか見えないものがある」など)、心霊的なことだったり(前世を覚えているとか)、簡単なテストがクリアできたから「あなたの子供も天才!」と言いつのったりするようなものは全部インチキなのでニッコリ笑ってやり過ごすのが一番です。あ、「親学」とかいうのも、とんでもないインチキなので近づいてはいけません。 それより、子供がある程度育っていろいろ質問するようになったら(これは甥っ子や友だちの子供で実際に見ていますが、かなりウザいことは確かです)、適当にごまかさず、なるべくきちんと理屈立ててなんでも説明することが重要です。「ちゃんと相手をしてもらえている」と子供が思えるのも大事だし、ものごとを合理的に考えるやり方や、科学的なものの見方には早いうちから慣れさせておくべきだとぼくは思います。
ただ、映画館になかなか行きにくくなるのは辛そうですね。ただ、これも奥さんと交代で行くなどすればできないことはない……かもしれません。Netflixやゲームは子育てをしながらでも全然大丈夫だと思います(もちろん、ちゃんと子供に目を配っていれば、という意味ですが)。
子供はとてもか弱く、育つ過程には危険もいっぱいありますが、一方でなんだかんだ言ってアッという間に育つし、大人が思うよりタフ(というか無神経)だったりもするので、いろいろ思い悩んだり、思い詰めたりして変に自分を追い込まないように気をつけつつ、肩の力を抜いて子育てするのがいいのではないかと思います。なお、子育ての過程では「公園デビュー」だとか「PTA」などといった中ボスが次々と登場して行く手を阻むと聞いていますが、そのへんは本当にケースバイケースだと思いますので、やっぱり肩の力を抜いて「ハハハ、世の中にはおかしな人たちもいるなあ」ぐらいでやっていってはいかがでしょうか(子育てというものは、いろいろ助言してきたり、自分のルールを押し付けたりしてくる、ちょっと頭のおかしい人たちとの闘いでもあるのだそうです)。
さて子育てにぴったりの映画ということですが、これはもう『赤ちゃん泥棒』(1987年)がいいと思います。と言ってみたものの、もう観たのが25年以上前なので、たいがい内容も忘れてしまいました。刑務所からトンネル掘って脱走したジョン・グッドマン(だったと思ったけど違う人だったかも)が泥まみれで「うおー!」と叫ぶと豪雨の中雷がビシャーン! みたいな場面だけ印象に残っていますが……『赤ちゃん泥棒』はコーエン兄弟初期の作品で、以前から仲が良かったサム・ライミの影響も強く感じられる、良いコメディだと思います。赤ちゃんもの、子育てもの(あるいは単に子供もの)では、ホラーだったらいくらでもおすすめできるのですが(『ローズマリーの赤ちゃん』〈1968年〉、『バスケット・ケース3』〈1991年〉、『デモン・シード』〈1977年〉、『悪魔の赤ちゃん』シリーズ、『光る眼』〈1995年〉、『トワイライトゾーン/超次元の体験』〈1983年〉のジョー・ダンテ監督のエピソード、『オーメン』〈1976年〉、『ペット・セメタリー』〈1989年〉、『エクソシスト』〈1973年〉、『悪い種子』〈1956年〉、『ザ・チャイルド』〈1976年〉、『チルドレン・オブ・ザ・コーン』シリーズ、『悪魔の受胎』〈1976年〉、『ザ・ブルード/怒りのメタファー』〈1979年〉、『エスター』〈2009年〉、『炎の少女チャーリー』〈1984年〉etc.)、あまりこんなのばっかり観ているとそれこそ胎教に悪そうなので、ここは一発、子供は結構タフだから大丈夫、ということを再確認するためにも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)とかを観るのもいいかもしれません。
あと映画に出てくる可愛い子供といえば、『アダムス・ファミリー』(1991年)も外せないです。質問者の方も、ぜひ『アダムス・ファミリー』のような素敵な家庭を目指していただきたいと思っております。最後の最後にこれまた聞いた話ですみませんが、自分の子供って、マジ可愛いらしいですよ。
■回答を終えて
友達の家の子供がアッという間に成人してしまったり、甥っ子に1年ぶりに会ったら、すでに身長を追い抜かれていたりと、子供が育つスピードには驚かされどおしです。いわゆる「歳をとるにつれて、時間の進むスピードが速くなったように感じられる」ということもあると思いますが(小学校に入学した頃は、6年生になるなどというのは永遠のさらに先の、果てしない未来のように感じられたものです。それまでの人生と同じ年数、学校で過ごすことになると宣言されるわけですから、そう感じるのもやむを得ないことではありますが……)、友達の子供とか親戚の子とかには、たまの機会にしか会わないので余計その成長にビックリしてしまうのでしょう。逆に、親になった人によれば「子供の成長を見ていると、自分もまた子供時代を再体験しているかのように感じられる」ということもあるんだそうです。本当にあなたが「子供時代を再体験したい」かどうかは別としてです。
Q:リベラルでグローバル、かつ平和な社会など、理想に過ぎないのでしょうか?
昨今、世界ではテロや移民問題や人種差別が激化し混沌としています。中国やロシアや北朝鮮なども脅威ですし、アメリカではトランプ旋風が吹き荒れ、フランスでは極右政党が支持率を伸ばしてると聞きます。日本もご多分に漏れず……。リベラルでグローバル、かつ平和な社会など、理想や戯言に過ぎないのでしょうか? 結局、人間は差別や偏見を捨て去ることができないのか、なんて考えたりします。嫌な世の中になったもんです。
質問者「バンボロ」さん
A:人類は極めてゆっくりとではあるけれど、ましな方向に向かっていると思います。
うーん、ひと言では答えにくいのですが、ぼくは全体としては人類は極めてゆっくりとではあるけれど、ましな方向に向かっているという考え方です。その「ましな方向」に行くことの足を引っ張る元凶のひとつが宗教だとも思っています。
ですので、昨今の差別主義や極右、国粋主義などの横行は、一種のバックラッシュなのではないかと思っています。少なくとも、その一部は。
もちろん、単純にすべてを楽観視しているわけではありませんが、たとえば「人種差別や女性差別には科学的な根拠などない」、というような認識はここ100年、いや50年でもいいですが、そのぐらいの短い間に広く共有されるようになりました。そういう流れ、それを「時代精神(ツァイトガイスト)」の変遷といってもいいと思いますが、これは差別主義者の人がじたばたしても止められるものではないと思います。インターネットなど、コミュニケーションの手段が大きく変わってきたこともあって、「時代精神」が更新されるスピードもアップしています。だって今から150年前ぐらいには普通に「黒人は奴隷にする方が自然」と思ってる人が沢山いたわけだし、50年くらい前だって「黒人と白人は別の席や別の学校や別の水飲み場で当たり前」と考えている人が沢山いました。「女は男より劣ってるから選挙権なんかやらなくていい」という考えだって、つい数十年前まで大手を振るってまかり通っていたわけです。
でも、そういう考え方はもう通用しなくなってきています。「うちの国は別だから」という言い方で人種差別や性差別を死守したい人が沢山いるのは承知してますが、そんな理屈が通らないことにも多くの人々が気づき始めている。しかし、そういうときには必ずバックラッシュが起きます。それがどういう感情に起因するのか、ぼくは専門家ではないので断言はできませんが、慣れ親しんだ感覚を更新することについて、たとえそれが倫理的に間違っていることとされていようが、そこに反発を覚えたり、苦痛を感じたりする人が一定数いることは確かだと思うのです(やっかいなのは、差別する側の論理を自分の中に内面化した、『ジャンゴ 繋がれざる者』〈2012年〉のスティーヴン〈サミュエル・L・ジャクソン〉のような人が、差別されている側にも必ずいるということです)。
自己を更新することはなかなか難しいので、保守的な人を中心にバックラッシュが起きてしまうのは仕方のないことです。しかし、バックラッシュによって「時代精神」の変化が押しとどめられた例はないので、全体としては、そして極めてゆっくりとではあっても、人類はましな方向に向かっているのではないかと思うし、そう思いたいです。(追記:今年の4月に邦訳が出版された『進歩:人類の未来が明るい10の理由』〈ヨハン・ノルベリ:著/山形浩生:翻訳/晶文社〉という本があって、これがまさに「人類は確かにましな方向に向かっている」ということを、データに基づいて実証的に述べているものでした。ここ数十年をとってみても、さまざまな分野で状況が飛躍的に改善されていることが理解できるのでおすすめです)。
それと、人間の中に残酷な性質や凶悪な性質が常にある、ということは別の問題かもしれない、ということは言っておきます。文化的に成熟することで、そういう衝動を理性で抑えるのが当たり前になっているのは喜ばしいことですが、そのことで我々に備わっている残酷さや凶悪さが除去され得るかといえば、そんなことはないだろうと思うからです。少なくとも当分(10万年とか)の間は。
■回答を終えて
昨今、一部に「理想」というものを、あたかも嘲笑すべき対象であるかのようにみなす風潮があります。冷笑的な態度をクールなことだと思う人は昔からいましたが、その裾野が広がってきたのか、あるいは単に諦めきった人が増えてきたのか、目の前の「現実」だけがすべてで、それに対し理想はどこまでも無力なばかりか、愚かで無駄な机上の空論に過ぎない……とするような文章を見てぎょっとさせられることが多いのです。しかし理想が牽引しなくなった人間社会、というものがどういうものかというと、それは中世ヨーロッパのような停滞と腐敗の世界でしかないでしょう(実際の中世ヨーロッパは印象に反していろいろ豊かなのですが、レトリック上こう書いています)。理想を放棄することは、もう何もしなくていいや、面倒くさいし、と地べたに寝っ転がって餓死を待つのと同じことだと思います。「こうなったらいいな」と夢想することは、絶対に無駄ではありません。
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